小中学生の頃、ぼくは負けず嫌いだった。中学生になると定期試験が行われ学年順位が出る。これが、ぼくを奮い立たせのは事実だ。「1番になりたい!」と本気で思った。まあ、結果は全然1番になれるような成績ではなかったが・・・ただ、あの頃のぼくは、向上心があったし、権力欲?出世欲?のような有能感を持っていたように思う。単純に偉くなりたいと思っていた。単純にね。
それが、高校生、大学生と大人の階段を登るにつれて、そういった有能感が薄れてきたのも事実・・・(主観的には、それでも、人並み以上の出世欲はあったなあ)
有能感が薄れてきた要因はいくつかあるが、一番はあれだな、他人の凄さを実感できる程度の大人になったと言えるだろう。それまでは、自分が一番だ!・・・というよりも、他人の凄さを認識できなかった。他人のことを凄いと思ったことがなかった。これこそが、自分って無能だよなって思うところでもある。
でも、高校、大学に行くと、凄い他人がゴロゴロいる。いや、違う。今振り返ってみると、小中学生時代から凄い他人はゴロゴロいたのだ。要は、自分がその事実に気づくことが出来るか否かでしかない。ぼくは気づかなかった。そして、今でも、恐らくその能力が鈍感な気がする。だから、上司を無能と罵ってしまうのだ(あっこれ、実社会で口外したことないですよ。。)。
有能感が薄れてきている・・・だからこそ、セミリタイアという道も真剣に考えることが出来るのだろう。有能感がある限りはセミリタイアなんて考える事が出来ないと思うのだ。少なくとも、ぼくにとっては。有能感が小中学生時代ほど強ければセミリタイアなんてできないだろう。有能感は敗北感に敏感だ。有能感は他人との比較の中で生きていかなければならない前提がある。有能感とは、他人と比べてというのが常につきまとう。有能感がある限り、ある程度の成果を出した上でなければ、セミリタイアという道を選ぶことができないはずだ。それを、人はプライドというのだろう。
有能感は必ずしも人生を豊かにするものではない。最近、そのように思いつつある。
そして・・・有能感から解き放たれつつある40代に突入したおっさん・・・セミリタイアの扉が開きつつある・・・・それにしても、有能感を連呼したものだなあ。
コメント
だれしも自分をより良い者と思いたいんだろうな
自分も過剰ななにかを求めて挫折して初めて身の丈が分かったように思うよ。
まあでも若い時はそれが向上心だとかやる気みたいなものでもあるわけで、身の程知らずもしかたないのかもしれない。
ろこじ さま
おっしゃるとおりですね。若いころは憧れるものがあって追いかける。
その憧れを手に出来る人は一握りだったりします。
憧れを追いかける過程は、よく言えば向上心であり、一歩引いた第三者目線からすれば身の程知らずに
写るかもしれませんね。