たまの休日には、セミリタイア生活に想いを馳せて妄想することがあります。妄想する風景は、一人御寺巡りをしたり、月に1回お気に入りの酒場に呑みに行ったり、散り始めた桜、晩秋のもみじを愛でながらお酒を飲む・・・こんな風景かなと思います。そうなんです。決してリア充なものではなく、むしろ、もの悲しい風景とも言えるでしょう。
ぼくももう40歳代です。今からセミリタイアしたとして、望むテーマは生活向上ではないのです。ここまで貯蓄したお金を取り崩しながら、お金のかからない生活、たまに物憂い風景に酔いしれる・・・こんな生活がしたい・・・物思いに耽る今日この頃です。そこで浮かんだキーワードは斜陽。
斜陽とは、字のとおり傾きかけた太陽といった意味。太宰治の小説が一番に思い浮かびました。そして、斜陽産業など・・・決してポジティブな言葉ではありませんね。
太宰治の『斜陽』は読んだことないな。
こんな風に思うと、ぼくにとっては、
非常に大事な本なのかもしれないね。
今後読んでみたい本の一つだね。
今回は、物思いに耽つつ、ぼくのセミリタイアスタイルを彩る斜陽!?(すごく矛盾した表現)について、考えてみます。
ぼくにとっての斜陽
日本社会で生活してきて、振り返ると強弱こそあれ「上へ上へ」という感覚を持って生きてきたのかなと思います。一生懸命生きてきました。高校受験、大学受験・・・ぼくなりに真剣に向き合ってきました。そして、社会人になってからも、「仕事で結果を出そう」と、ぼくなりに頑張ってきたつもりです。その結果が今の生活なのでしょうが・・・満足していますよ。
これまでの結果には満足してるよ。
いろいろ反省は当然あるけどね。
よくやったと思ってる・・・
ただ、もうここらで良いかな?と
いう限界を感じているのも事実だね。
思えば、思春期の頃は自分の実力を過大評価していましたね。なんか、根拠のない自信があった。一方で、これまた、根拠のない自分への不安があり・・・根拠のない不安、自分の実力のなさを漠然と感じてしまうというのは厄介なものです。その結果、行動が保守化してしまう・・・そして、成長機会を失ってしまう。
これ、本当に後悔。ぼくの特質、限界なんだよね。
肝が据わらないのだ。臆病になってしまう。臆病を
貫きとおすならば、それも一流。だけど、変に無頼漢
への憧れもある・・・中途半端な人間なのだ!
いつまでも成長曲線を描いて生涯を終えるのは難しいものですね。それは、見事な人生と言えます。また、ぼくの場合、限界を迎えるのに極度な恐怖感がありました。
セミリタイアを目指す気持ちになったのも、成長曲線を描き切れなくなった。実力的にもメンタル的にも・・・そういうことなんだと思います。
そして、夕暮れなどを見ていると妙に落ち着いた気持ちになることもあります。「上を目指すのはもう終わった」、「がんばらなくていいか」、「これまでよく頑張った・・・」、斜陽・・・この言葉が浮かんできますね。
ぼくの斜陽イメージの例
なかなか抽象的な斜陽イメージ。ぼくが思う場面をいくつか紹介します。
一つ目は、テレビ東京『国盗り物語』のクライマックスシーン。概要は省きます。明智光秀(渡部篤郎)が死んだあと、斎藤道三(北大路欣也)と関わった赤兵衛(平田満)とお万阿(高島礼子)が縁側でたたずむシーンに移ります。夕暮れの荒れ果てた京都嵯峨野のあばら家で、年老いた二人がお茶を飲みながら、戦国の世を振り返り番組を締めます。
この場面は、2005年頃に見ました。ぼくはまだ20代半ばでしたが、妙に心が惹かれましたね。「こんな年の取り方をしたいな」と思ったのかどうかわかりませんが、あんな雰囲気に今でも憧れますね。
二つ目は、夏の終わりでしょうか。イメージでいうと、お盆明け、8月下旬、夏の甲子園の終わり、甲子園の決勝を見終わって、いつのまにか日中も短くなり、夕暮れ時を迎える・・・子どもの頃は、夏の終わりは、夏休みの終わりを意味しており、当時の夕暮れに鬱を感じていましたね。ただ、斜陽という感覚は、少し物憂げな気持ちも含まれていると思います。あの「夏が終わる・・・」という感覚・・・物憂げを感じつつ、ちょっとロマンチな気持ちになっていた自分もいましたね。
そうなんだね。斜陽とは、鬱っぽい感情に
酔いしれる・・・これ大事な感覚だな。
おわりに
そうなんです。ぼくがセミリタイアを目指す前提として、この斜陽という感覚が重要になります。いままで、ぼくを走らせてきた成長という生活からの決別を意味します。成長から斜陽へ、この斜陽をプラスに受け止められる感覚、40にして少しずつわかるようになってきたのかもしれません。
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